リアリティを考えたい(演劇について)
以下から引用あり。
「面白ければOKか?/三浦基」
フィクションへの評価でよく表れる単語に「リアリティ」がある。面白くない作品に対して「リアリティがない」といった使い方をする、アレである。
しかし、リアリティとは一体何か?
訳としては「現実味」「現実感」となるのだろうが、この時点で、フィクションのリアリティというのはひとつの意味にならない予感がする。つまりリアリティという言葉の指す対象は媒体ごとに違うだろうということだ。
例えば演劇。前田は全くの門外漢であるが、少し考えてみる。
演劇は「目の前に人間がいる」ということがとても重要なフィクションだ。劇場に足を運んで、生の役者たちが演じているという、それだけでもう面白い。
さて、演劇において現実とは何か? 役者の肉体がまず挙げられるだろう。役者が現にそこにいるというのは、疑いようがない。
逆に、ウソとは何か? 台詞がまず挙げられるだろう。演劇には事前に決められた台本があるのだから、話される内容はフィクションであるに違いない。
と、簡単にふたつを挙げてしまったが、しかし、簡単に断定していいものか?
役者の動きというのは事前に台本で決められている。だから肉体がそこにあるのは現実でも、動きはフィクションの領域だろう。しかし、どこまでフィクションなのか? 役者が台詞を喋りながら手を握ったり開いたりしているのも台本通りなのか? さっき舞台袖から走ってきた役者は汗をかいているけど、汗をかくのは生理現象だから現実か。けど、台本の指定でこれだけ走り回ったら汗をかくのは当然じゃないか、汗も台本に組み込まれているのか?
台詞は台本に書いてあるが、今、あの役者が言い淀んだのも台詞のうちなのか? やけに感情のこもっていない棒読みなのは? 語尾が少し間延びする感じなのは台本通りなのか、役者のクセなのか?「わたし、イヌじゃない」という台詞の真偽はどうだ? 台詞を言った役者は明らかに人間だから、その台詞は意味内容として本当のことだ……。
細かなところまで追っていくと真偽の判定が(観客には)原理的にできなくなってしまう。役者自身は判定できるのだろうか? 演出家は? 前田は演劇を創る側になったことがないので分からない。
ところで、ウソとは何だろうか。
ここでは台本(事前に決められたこと)=ウソとして扱った。観客が役者の行為すべてをウソかどうか判定できないのは何故かといえば、単純なことで、観客は台本を読めないからだ。もう少し正しく言うなら、公演の事前に定められていた予定を知ることができないからだ。
このウソの判断基準は少々面白いかもしれない。日常生活でいうウソというのは、事実と照らし合わせて『一致しない』ときに使う言葉だ。演劇だと台本を照らし合わせて『一致する』のがウソだという……。
日常生活と演劇の対比よりも興味深いのが、『照らし合わせる』というところではないか? 言葉と何かを照らし合わせるということ……。何かに入るのは、ひとつに限らないということ……。日常生活と演劇の場合にも共通している特徴であるし、以下に引用する三浦基の言葉とも繋がる。
----引用開始----
観客は、「わたし、畑じゃない」と言う人物の体を見ようとする。違う言い方をすればチェックしようとするといったらよいか、とにかく、〈畑〉なわけないだろ、と、その「体」を視界に入れるわけだ。ここに「口」にはない「体」の出現があり、それは発語する俳優の姿のことであるが、それが、観客にとって思考の糸口になっていく。観客は、一方的に〈わたし〉の否定を聞くのではなく、〈畑〉という情報を受け入れながら、〈わたし〉についての監査を始めるのである。このとき、俳優は自らの体を担保とすることで、観客の視線にさらされながら発語することが可能になる。
(面白ければOKか?/三浦基 16p)
----引用終了----
ここで三浦基が言っている「発語できる台詞/発語できない台詞」というのは、次に引用するような考えだ。中略の部分ではベケットの『わたしじゃない』という戯曲について触れている。
----引用開始----
「わたしは何者か」という問いを、人は基本形として持っているに違いない。この問いには二つの方向性がある。ひとつは、「わたし」があり、この「わたし」とは「何者か」という順番で、能動的に「わたし」から出発する問い方である。もうひとつは、そもそもの「わたし」自体を根本から疑うという方向性である。考えようとする「わたし」すら、そう簡単にはありませんよ、という問い方と言ったらよいか。私にとって演劇とは、むしろこのような方向から生まれてくるのではないかという気がしている。
(中略)
ここに提起された主体への疑いを前提としているかどうかで、俳優が「言える」台詞と「言えない」台詞は分かれるのではないか。台詞とは、発語を期待して書かれた言葉だからこそ、『わたしじゃない』に象徴されるように、それを口にする俳優の主体性に疑いが及ばなければ、意味のないものであろう。「言える」台詞は、このような事情を抱えているかどうかで決まる。
(面白ければOKか?/三浦基 9~12p)
----引用終了----
台詞と肉体を相互に照らし合わせることができるという点は、リアリティとは何かを考える糸口になるのではないか。観客は役者の体が現実だと見なした上で台詞を聞き、その台詞が体に対してどうであるかを判断する……。
だが全ての台詞が肉体と比較可能であるわけではない。「面白ければOKか?」でも引用されているが「ロミオとジュリエット」の、例えばこういう台詞。
----引用開始----
「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?」
(面白ければOKか?/三浦基 24p)
----引用終了----
この台詞と共にロミオ役の肉体を見たとしても、そこにロミオである証拠などはない。かといってロミオでないと言うこともできず、つまり、台詞と肉体を照らし合わせることができない。
では何と照らし合わせてこの台詞を真実だと判断すればいいかというと、過去に発された台詞……その役者がロミオだと言われていたということ……その役者がロミオだという設定と照らし合わせて、その台詞が本当だと判断する。
台詞と肉体の照らし合わせが行われる舞台。
台詞と設定の照らし合わせが行われる舞台。
「現実感=リアリティ」というキーワードから見るとき、このふたつの舞台は確実に違っているだろう。前者は台詞ごとに「現実とは何か」を疑いながら進んでいき、後者は「設定は現実だ」と信じなければ全てがウソになってしまう危険を孕んでいる。
実際に劇をやるとなれば、いずれの台詞も使われるし、いずれでもない台詞が使われる、というものになるかもしれない。その辺りはよく分からない。分からないが、以上のような観点で演劇のリアリティを考えることはできるのではないか?
「面白ければOKか?/三浦基」
フィクションへの評価でよく表れる単語に「リアリティ」がある。面白くない作品に対して「リアリティがない」といった使い方をする、アレである。
しかし、リアリティとは一体何か?
訳としては「現実味」「現実感」となるのだろうが、この時点で、フィクションのリアリティというのはひとつの意味にならない予感がする。つまりリアリティという言葉の指す対象は媒体ごとに違うだろうということだ。
例えば演劇。前田は全くの門外漢であるが、少し考えてみる。
演劇は「目の前に人間がいる」ということがとても重要なフィクションだ。劇場に足を運んで、生の役者たちが演じているという、それだけでもう面白い。
さて、演劇において現実とは何か? 役者の肉体がまず挙げられるだろう。役者が現にそこにいるというのは、疑いようがない。
逆に、ウソとは何か? 台詞がまず挙げられるだろう。演劇には事前に決められた台本があるのだから、話される内容はフィクションであるに違いない。
と、簡単にふたつを挙げてしまったが、しかし、簡単に断定していいものか?
役者の動きというのは事前に台本で決められている。だから肉体がそこにあるのは現実でも、動きはフィクションの領域だろう。しかし、どこまでフィクションなのか? 役者が台詞を喋りながら手を握ったり開いたりしているのも台本通りなのか? さっき舞台袖から走ってきた役者は汗をかいているけど、汗をかくのは生理現象だから現実か。けど、台本の指定でこれだけ走り回ったら汗をかくのは当然じゃないか、汗も台本に組み込まれているのか?
台詞は台本に書いてあるが、今、あの役者が言い淀んだのも台詞のうちなのか? やけに感情のこもっていない棒読みなのは? 語尾が少し間延びする感じなのは台本通りなのか、役者のクセなのか?「わたし、イヌじゃない」という台詞の真偽はどうだ? 台詞を言った役者は明らかに人間だから、その台詞は意味内容として本当のことだ……。
細かなところまで追っていくと真偽の判定が(観客には)原理的にできなくなってしまう。役者自身は判定できるのだろうか? 演出家は? 前田は演劇を創る側になったことがないので分からない。
ところで、ウソとは何だろうか。
ここでは台本(事前に決められたこと)=ウソとして扱った。観客が役者の行為すべてをウソかどうか判定できないのは何故かといえば、単純なことで、観客は台本を読めないからだ。もう少し正しく言うなら、公演の事前に定められていた予定を知ることができないからだ。
このウソの判断基準は少々面白いかもしれない。日常生活でいうウソというのは、事実と照らし合わせて『一致しない』ときに使う言葉だ。演劇だと台本を照らし合わせて『一致する』のがウソだという……。
日常生活と演劇の対比よりも興味深いのが、『照らし合わせる』というところではないか? 言葉と何かを照らし合わせるということ……。何かに入るのは、ひとつに限らないということ……。日常生活と演劇の場合にも共通している特徴であるし、以下に引用する三浦基の言葉とも繋がる。
----引用開始----
観客は、「わたし、畑じゃない」と言う人物の体を見ようとする。違う言い方をすればチェックしようとするといったらよいか、とにかく、〈畑〉なわけないだろ、と、その「体」を視界に入れるわけだ。ここに「口」にはない「体」の出現があり、それは発語する俳優の姿のことであるが、それが、観客にとって思考の糸口になっていく。観客は、一方的に〈わたし〉の否定を聞くのではなく、〈畑〉という情報を受け入れながら、〈わたし〉についての監査を始めるのである。このとき、俳優は自らの体を担保とすることで、観客の視線にさらされながら発語することが可能になる。
(面白ければOKか?/三浦基 16p)
----引用終了----
ここで三浦基が言っている「発語できる台詞/発語できない台詞」というのは、次に引用するような考えだ。中略の部分ではベケットの『わたしじゃない』という戯曲について触れている。
----引用開始----
「わたしは何者か」という問いを、人は基本形として持っているに違いない。この問いには二つの方向性がある。ひとつは、「わたし」があり、この「わたし」とは「何者か」という順番で、能動的に「わたし」から出発する問い方である。もうひとつは、そもそもの「わたし」自体を根本から疑うという方向性である。考えようとする「わたし」すら、そう簡単にはありませんよ、という問い方と言ったらよいか。私にとって演劇とは、むしろこのような方向から生まれてくるのではないかという気がしている。
(中略)
ここに提起された主体への疑いを前提としているかどうかで、俳優が「言える」台詞と「言えない」台詞は分かれるのではないか。台詞とは、発語を期待して書かれた言葉だからこそ、『わたしじゃない』に象徴されるように、それを口にする俳優の主体性に疑いが及ばなければ、意味のないものであろう。「言える」台詞は、このような事情を抱えているかどうかで決まる。
(面白ければOKか?/三浦基 9~12p)
----引用終了----
台詞と肉体を相互に照らし合わせることができるという点は、リアリティとは何かを考える糸口になるのではないか。観客は役者の体が現実だと見なした上で台詞を聞き、その台詞が体に対してどうであるかを判断する……。
だが全ての台詞が肉体と比較可能であるわけではない。「面白ければOKか?」でも引用されているが「ロミオとジュリエット」の、例えばこういう台詞。
----引用開始----
「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?」
(面白ければOKか?/三浦基 24p)
----引用終了----
この台詞と共にロミオ役の肉体を見たとしても、そこにロミオである証拠などはない。かといってロミオでないと言うこともできず、つまり、台詞と肉体を照らし合わせることができない。
では何と照らし合わせてこの台詞を真実だと判断すればいいかというと、過去に発された台詞……その役者がロミオだと言われていたということ……その役者がロミオだという設定と照らし合わせて、その台詞が本当だと判断する。
台詞と肉体の照らし合わせが行われる舞台。
台詞と設定の照らし合わせが行われる舞台。
「現実感=リアリティ」というキーワードから見るとき、このふたつの舞台は確実に違っているだろう。前者は台詞ごとに「現実とは何か」を疑いながら進んでいき、後者は「設定は現実だ」と信じなければ全てがウソになってしまう危険を孕んでいる。
実際に劇をやるとなれば、いずれの台詞も使われるし、いずれでもない台詞が使われる、というものになるかもしれない。その辺りはよく分からない。分からないが、以上のような観点で演劇のリアリティを考えることはできるのではないか?